倉本和昌と申します。サッカーコーチにコーチをするという日本で唯一の仕事をしています。
私はかれこれ25年以上「日本が世界レベルのサッカー大国になるには?」を考え続けてきました。1993年にJリーグが始まる前、当時テレビでイタリアのセリアAを見ていたことがきっかけです。
自分も含め、小学5年生だった周りはみんなJリーグフィーバーになっていました。しかし、私は普段テレビで見ているセリエAの試合とJリーグの試合のプレースピード、激しさがこんなに違うのだろうと不思議に思っていました。
そして「どうやったらこの世界の舞台に日本が行けるんだろうか?」と考え始めたのです。
ビジョンはチャンピオンズリーグ日本人50人!
その私なりの答えが、「世界最高レベルであるヨーロッパチャンピオンズリーグでプレーする日本人が50人になっている状態を作ること」です。
とはいえ、このビジョンを私一人で達成できるはずもありません。
このビジョンを達成するために、この想いに共感してくれる世界基準の指導力を持ったサッカーコーチを1000人育成すること。それがサッカーコーチのコーチである私の具体的な目標になりました。
つまり志高い指導者が集まり、互いに切磋琢磨する場を作ること。
そのためにサッカーコーチのコーチとして起業したのです。
サッカーコーチのコーチって何?
それでは「サッカーコーチのコーチとは何か?」「どんなことをしているのか?」
と不思議に思われた方が多いと思います。
私は、これまでスペインで8年指導現場に身を置き、スペインサッカー協会公認上級ライセンスを取りました。
そして湘南ベルマーレ、大宮アルディージャという2つのクラブでアカデミーコーチを合計8年務めました。
さらに脳科学、心理学、ビジネススキルを学んだものを体系化し、現場で使える独自メソッドを提供することを通して、サッカーコーチをあらゆる角度からサポートさせてもらっています。
その結果、そのコーチのミッション、ビジョンや将来像を明確にさせることで、より自分らしく指導ができるコーチになってもらうようにしていくことを仕事としています。
そのような影響力の強いコーチが多くなり「自分もプロ選手になって海外で活躍するんだ!」と夢を持っている子どもたちに関わることで、選手の更なるレベルアップにつながります。
世界基準のサッカーコーチになる3つの柱
世界基準のサッカーコーチとは、主体的に動け、創造的で、かつ戦術的解決ができる人としています。
さらに必要な3つの柱があり、セミナーや6ヶ月講座で普段お伝えしているのは、以下の3つが中心になっています。
・ポジショニングの概念を学び、かつ実践できる人
・成長マインドセットになり、それを周りに伝えられる人
・自チームにあったゲームモデル を作成し、チームの勝利と個人の育成を両立させられる人
選手全員がそのプロのレベルに到達するわけではありません。しかし、今サッカーをやっている子どもたちの夢はJリーガーになることではなく、「Jリーグで活躍して、ステップアップし、最終的にはヨーロッパのビッグクラブでプレーする!」というものに変わっています。
例えば、久保建英選手は川崎フロンターレのジュニア経由でF Cバルセロナのアカデミーで育ち、日本に戻ってF C東京でトップチームに上がり、今度はレアル・マドリードへ移籍しました。南野拓実選手がザルツブルグからリバプールへ移籍、冨安健洋選手がアーセナルへ移籍する時代になりました。
先人たちの活躍のお陰で、「だったら自分もできるはずだ!」と希望を持って頑張っている子どもたちがたくさんいるのです。
そんな夢を追いかけている子どもたちに私たちコーチが「チャンピオンズリーグでプレーする?そんなのお前には無理!」と言えるでしょうか?
当然誰もが夢を描いてその通りにいくわけではありません。しかし、子どもたちの夢自体を僕ら大人が壊したり、笑ったりしていいのでしょうか?その子の夢がF Cバルセロナでプレーすることなのであれば、私たちもその基準を知らないといけないわけです。
「その夢面白い!道はかなり険しいけど、コーチも全力でサポートするよ!」となったときに、これまでの日本の基準で考えるだけでは難しいのです。
子どもたちの夢を叶えるため、自己研鑽を続け、子どもにより良いアプローチをしたいと願うコーチも増えています。
6ヶ月講座についての詳細サッカーコーチを目指すきっかけは中学生時代の挫折から
それでは、元々プロサッカーコーチだった私が、なぜコーチのコーチとして起業することになったのか?を話していきましょう。
私も最初は皆さんと同じように子どもの頃の夢は「サッカー選手になる」ことでした。
しかし、中学生時代に全く試合に出られない悔しい経験をしたことに加えて、当時私はサンフレッチェのジュニアユースに所属していたのですが、一学年上のユースの先輩に後に日本代表で活躍する駒野選手や森崎兄弟という飛び抜けた選手を目の当たりにして「これはプロ選手に自分がなるのは無理だ」とショックを受け、選手として完全に挫折してしまったのです。
当たり前ですが、そんな私はサンフレッチェのユースに上がれるわけもなく、次の進路を考えなければいけなくなりました。
しかしながら「サッカーと関わることからは離れられないな」と考えていた私は中学生の時には「プロサッカーコーチになるにはどうしたらいいか?」を考え始めたのです。
そこで思いついたのが「誰もやったことがないことをすること!」でした。
結局、外国人でもライセンスが取れるという情報を聞きつけ、スペイン、バルセロナへ留学することを決めました。決めたもののスペインどころか、海外に一度も行ったことがなかった私は必死に情報を集めました。その時に読んだ羽中田さんが書いた「グラシアス」という本はスペイン留学されていた頃のことが書かれており、より留学への具体的なイメージを描く手助けとなりました。
高校時代は卒業後スペインに渡るためにバイトに明け暮れる毎日でした。サッカーに関しては自分がプレーするのは高校3年間で最後になると思い、強豪校にいくのではなく、1年生からレギュラーになれるところを選びました。
なので、サッカーとバイトに全力を尽くし、授業中は眠くて起きていられない。つまりほとんど寝ているという生徒でした。先生本当にごめんなさい。
そんな私でも応援してくれた先生、本当に感謝しています。
バルセロナに渡ってサッカー観が全てひっくり返る
その後、念願叶ってスペインへと渡り、バルセロナに約5年、そしてビルバオに移住して3年、本当に全て書ききれないほど刺激的な経験をさせてもらいました。
バルサが低迷期から世界一へと登っていく過程、つまりライカールト監督時代ロナウジーニョ全盛期、アカデミーで有名だったメッシがトップチームへ上がるまでを見続け、自分が住んでいる街のチームがチャンピオンズリーグで優勝し、100万人が参加する大パレードを間近で見るという経験もさせてもらいました。
コーチとしてもその間にU-9カテゴリーからユース、そしてトップチームの分析係と全てのカテゴリーを経験させてもらったこと、バルサ、エスパニョール、アスレチック・ビルバオというプロクラブのアカデミーと対戦したこと。スペイン人のサッカー仲間がたくさん増えたこと。
さらにコーチングスクールでサッカーについて体系的に学び、それを普段のリーグ戦で発揮するサイクルの中に自分の身を置けたこと。この経験が非常に大きかったです。
直接現地で見られなかったのですが、日本からの仕事で2008年ヨーロッパ選手権のスペインを追いかける、スペインの現地の様子をレポートに書くことをやらせてもらいました。
偶然にもその大会でスペイン代表が優勝し、スポーツの力で国が1つになるという経験をさせてもらいました。
元々スペインは民族意識が強く、代表チームが応援されないし、タレントはいるけど結果が出ないという歴史を辿っていました。私が住んでいた街はビルバオだったので、よく友人も「俺はスペイン人じゃなくてバスク人だ」と言っていましたから。
それがこの優勝によって「俺はバスク人だけど、スペイン人でもある」と言い始めた人が出てきたのです。私自身スペインが国際大会で優勝するのは生きているうちはお目にかかれないと思っていたので、本当に驚きましたし、与えた社会的影響の大きさを肌で感じました。
初めてサッカーコーチでクビになる経験
そう書くと本当に良い経験ばかりなのですが、現実はそう甘くなく、2008−2009年シーズンは最も過酷で、最も印象深いシーズンとなりました。
私は町クラブでU-14の監督をやっており、更にスペインリーグ2部B(実質3部)のバラカルドというチームで分析係をやらせてもらっていました。それに加えてコーチングスクールレベル3(上級ライセンス=日本のS級ライセンスに相当)の授業があるという生活でした。
まず自分が監督をしているチームで、成績不振ではなく「選手との信頼関係が壊れてしまったから」という理由で首になります。つまりチームのマネージメントをうまくできていなかったからです。
さらに、スペインリーグ2部Bのバラカルドで仕事ができたのは監督であり、師匠であるアルベルトが誘ってくれたからなのですが、そのアルベルトがシーズン残り5試合で解任。一緒に連れて行ってもらった私も当然首になります。
なんと1つのシーズンで2回も首になる経験をすることになったのです。あまりにショックで塞ぎ込んでいる私にコーチングスクールのクラスメイトは「おめでとう!!」という残酷な言葉を投げかけてきました。
「何がおめでとうだ!この〇〇野郎!!」と怒り散らしていた私でしたが、彼らは「重要なポジションに就いているから首になったんだろう?どうでもいいアシスタントコーチだったら首もないぞ。つまりこれが監督としてのスタートだね」と言ってくれたのです。
おまけに当時コーチングスクールで授業を教えていたスーペルデポルの育て親である名将ハビエル・イルレタさんが「カズ。大変な思いをしたようだな。だけど本物の監督は3回首になってからだ!!」という名言を教えてくれました。
指導者としては散々なシーズンでしたが、無事コーチングスクールを卒業し、2009年日本に帰国。人の縁に恵まれ、2010年2月から湘南ベルマーレのアカデミーで働かせてもらうことになります。
4年後、大宮アルディージャに移籍し、担当カテゴリーを持たず、ジュニアからユースまで全てのカテゴリーに携わる仕事をやらせてもらいました。
途中でU-13の担当になり、そのままU-14へと持ち上がるのですが、ここでこれまで解決できなかった問題が同じように出てきてしまいます。
そう。それはスペインの時にも経験した「選手との信頼関係がうまく作れない」ということです。それまでも自分が思いつく限りの様々なアプローチはしたつもりでした。でも、根本的な解決にはならなかったのです。
なぜ脳科学・心理学を学び始めたのか?
この問題を解決しない限り自分はサッカーコーチを辞めないといけない。続けることはできないと思いました。その時に「では、どうしたらいいんだろう?」と悩み続け、何かヒントになることはないかと心理学、脳科学を学び始めたことが現在の私を作るきっかけになったのです。
特に潜在意識の話、脳の仕組みの話、人のタイプを見極め、タイプにあったアプローチをするということを学び始めて、サポートしているチームやそのコーチに自分なりに話をし始めてから不思議とチームがうまくいくことがあり、結果もついてくるという現象が起こり始めました。
もちろんそれが自分の力でないのですが、
学びを深める中で、「そもそも自分はどういうタイプで、何が得意なのか?」ということを掘り下げ始めました。自分の特徴がわかり、それを発揮することがクラブに対する1番の貢献になるのではないかと分かったのです。
最終的に自分の能力をもっと他のコーチにも使うことはできないのかと考え始めました。もちろんJリーグのクラブでコーチとして働けるなんてこの上ない幸せなことです。
一方で「クラブのコーチ以外にも自分が悩んできた中で作ってきたアプローチができれば、もっとたくさんのコーチの指導力アップに貢献できるのではないか?そうするともっと選手のレベルアップにつながるのでは?」と思うようになりました。
最終的により多くのコーチ、もっと言うと日本サッカー界に貢献するにはサッカーコーチのコーチとして起業することだと思い、断腸の思いでクラブを離れる決意をしました。自分の考えを理解してくれ、今でも応援してくれているクラブには本当に感謝しています。
起業してからこれまで1000人を超えるサッカーコーチに携わらせて頂き、日々より良い指導ができ、選手が伸びるように、選手がより主体的になるようにアプローチするお手伝いをさせてもらっています。自分の使命通り生きている実感があります。
これからも人生において大切なことをたくさん学ばせてもらった、もたらしてくれたサッカーに恩返しを続けていきたいと思います。
これからの新しいチャレンジ!
「日本が世界レベルのサッカー大国になるには?」
という問いに対する自分なりの答えを探究し続けるという意味で、自分にしかできないことは何か?私は更なる挑戦を考えています。
それは2021年から生活拠点をオランダに移すことです。
再びヨーロッパの最前線でサッカーが見たい。チャンピオンズリーグを現地で観戦したい。色々な国に言ってその国の育成方法を調べて、日本がより良くなるようなヒントを考え続けたいからです。
それが「チャンピオンズリーグ日本人選手50人出場」につながると信じて活動を続けています。
選手の育成とチームの勝利を両立させたいと願う情熱あふれるサッカーコーチに皆さん!皆さんのビジョンを一緒に叶えていきましょう!そのために私が全力でサポートします!
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